LOT.144

千 利休
茶杓

  • 作品カテゴリ: 茶道具
  • 長 18.4cm

  • / 共筒 (口に利休花押) 替筒 (覚々斎書付及び花押) 吸江斎極箱 駒沢利斎作茶杓箱 不審庵茶杓書付領収覚書 駒沢利斎茶杓箱領収覚書
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  • 予想落札価格: ¥3,500,000~¥5,500,000

〈作品について〉


 千利休 (1522 - 1591 年) は名を与四郎といい、茶の湯を北向道陳に学び、十九歳ごろから紹鷗に師事して宗易を称し、抛筌斎( ほうせんさい) とも号した。利休の茶会は天文十三年 (1544 年) の会を初見とし、茶匠としての活躍は、信長の天下統一に伴い、今井宗久、津田宗及らと共に茶頭に起用されてからである。信長没後、秀吉には「天下の茶匠」として仕え、側近として政治にも関与した。秀吉との関係は、天正十三年(1585 年) の禁中茶会に「利休居士」の名で出仕し、同十五年十月の北野大茶湯を推進するなど一層深まったが、天正十九年二月二十八日秀吉の命で自刃した。
 利休のわび茶の成立は、晩年のほぼ十年間に集約、昇華されている。利休のめざした茶の湯は、珠光・紹鷗以来のわび茶、草庵の茶に「心味の無味の境」を求める求道性の強いものであった。茶室は従来の四畳半を二畳、一畳台目の小間に極限し、宗易形の茶碗を作り、竹花入を初めて茶室に取り入れた。利休にとっては「道具の由来知り候こと至って嫌い」といわれるように、室町時代以来の唐絵、唐物は不要であり、墨蹟も禅林祖師のものばかりではなく、当代の禅僧の墨蹟を床に掛け、草庵の床にふさわしい利休表装に改めている。茶入は唐物茶入が新しいわび道具に調和するためにそのまま用いられたが、花入、水指は草庵にふさわしい大きさと味のあるものが、信楽、伊賀、備前などで作られ、茶碗は「唐茶碗ハ捨リタル也、当世ハ高麗茶碗、瀬戸茶碗、今焼ノ茶碗迄也、形サへ能候へハ数奇道具也」というものであった。
 さらに棗などの茶器、茶杓、釜、建水、蓋置などに至るまで、すべて草庵の茶にふさわしいものが選択され、創造されている。

『特別展覧会 四百年忌 千利休展』展覧会図録より


 茶入や棗などの薄茶器から抹茶をすくって茶碗に入れる道具である茶杓。古くは中国から渡来した象牙の匙を転用したようであるが、やがて象牙の匙を竹で模してつくるようになる。その後、武野紹鷗が最下部に竹の節を残した「止節(とめぶし)」と呼ばれる紹鷗形の茶杓をつくり、千利休は中央部に節がある「中節」を考案。以後、利休形の「中節」が茶杓の雛型となる。
 本作品は所謂「中節」の一作であり、特に節裏を薄く削った「蟻腰」の1 本である。浅い溝の入った櫂先は僅かに歪み、技巧的・対称的な形から脱却し、素材の自然な形や不完全さが生かされている。 静嘉堂文庫美術館にある利休の茶杓「銘 両樋(りょうひ)」のように、本茶杓も節の上だけでなく下にも溝(樋)状のくぼみがある竹が用いられており、これらの特徴からも利休らしさを垣間見ることができるであろう。
 共筒の口には利休の花押がなされており、替筒には「利休 在判共 宗左( 花押)」と6 代の覚々斎原叟宗左による書付がある。また、利休による共筒と覚々斎の書付のある替筒が収められている駒沢利斎作の桐箱には「利休作茶杓 筒在判有 覚々斎替筒」と吸江斎による書付がなされている。