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Maurice Utrillo(モーリス・ユトリロ)〈1883-1955〉
Montmartre Rue du Chevalier de la Barre(モンマルトルのサクレ=クール)

  • 作品カテゴリ: メイン洋画
  • 81.0×60.0cm
  • キャンバスに貼ったボード・油彩・額装
  • 中央下にサイン・裏面にMusée de l’Athénée展覧会シール、Ohana Galleryシール / 1918年
    / Gilbert Petrides & Jean Fabris 鑑定証書付
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  • 予想落札価格: ¥15,000,000~¥25,000,000

[掲載文献]:『L'œuvre Complet de Maurice Utrillo, tome Ⅱ』 P213 No.715 掲載 (Paul Pétridès:1962年)

[展覧会歴]:『Exposition Maurice Utorillo』No.8 出品(Musée de l’Athénée:1961年7月20日~9月12日)

〈作品について〉


 フランス・パリのモンマルトルは、19 世紀から多くの芸術家が集まり、さまざまな新しい芸術活動が興った街として知られるが、名だたる画家たちのなかで最もこの土地と密接に結びつけられる存在といえば、モーリス・ユトリロのほかにいないだろう。モンマルトルで生まれ育ったユトリロは、慣れ親しんだ街中のなにげない景色を題材にして傑作の数々を残し、没後70 年を迎える今なお、名声は衰えない。
 今回出品作《Montmartre Rue du Chevalier de laBarre( モンマルトルのサクレ= クール)》は、まさしくユトリロが愛した街並みを描き、加えて街のシンボルである大聖堂も登場し、「モンマルトルの落とし子」とも呼ばれ画家らしい1 枚となっている。さらには、画面は画家を語るに欠かせない白色で彩られ、風景には見る者を惹きつけてやまない哀愁がただよい、画家独特の詩情を豊かに表す。

 本作は、サクレ=クール寺院の真後ろにつながるRue du Chevalier de la Barre( シュヴァリエ・ド・ラ・バール通り) の光景を描く。この通りの名前は、18世紀半ばに神を冒涜した罪で処刑された騎士に由来し、のちに冤罪が認められると思想・信条のシンボルとなり、20 世紀初頭には、寺院の正面にこの人物の彫像も設置されていた時期もあったといわれている。
 そして通りの先には、ロマネスク・ビザンティン様式の大きなドーム屋根をもつサクレ= クール寺院の威容が現れる。パリで最も標高の高いモンマルトルの丘にそびえる白亜の教会堂は、モンマルトルのみならずパリを象徴するモニュメントのひとつに数えられるが、この寺院の歴史は意外と新しい。普仏戦争とパリ・コミューンで命を失ったフランス市民を讃える公共建造物として1875 年に建設がはじまり、40 年の歳月をかけて1914 年に完成し、第一次大戦後の1919 年に市民に開放された。モンマルトルの丘のふもとで1883 年に誕生したユトリロにとっては、この大聖堂はともに成長した幼馴染のような存在であったと想像することもでき、1918 年ごろに制作された本作に完成したばかりの姿を描くことに、ひとしおの感慨があったと偲ばれよう。

 画面の中央に鎮座するサクレ=クール寺院は現実のとおりに白いが、寺院の上空も白く、手前にある通り沿いの建物や歩道も白く、白一色が多く占める画面は空虚な印象を与える。しかし、同じ白であっても、細やかなニュアンスでそれぞれの存在感を際立たせており、この白の多彩な表現は画家の独創性を明らかにする。
 さらには、街中であるのに人通りはほとんどなく、少しばかりの人影もみな遠く、彩色と相まって寂寥感をより強めており、画家が生来抱えていた孤独を率直に表すだろう。
 そして、建物が密集している画面右側に対して、左側はぽっかりとあいた空間が広がるアンバランスな構図は、画家のナイーブな精神の表出のようである一方、ふしぎな均衡は否応なく鑑賞者の目をひく。これら独特の表現が醸し出す深い情感は、多くの人の胸を打つユトリロの魅力をあますことなく伝えている。

 ユトリロは、のちに女流画家として大成するシュザンヌ・ヴァラドンの私生児として生まれ、幼少期は忙しい母に放っておかれるばかりで、ひとり漆喰の壁にいたずら書きをしたり、漆喰のかけらで遊んで過ごした。10 代になると寂しさをまぎらわせるためにアルコールに溺れてさまざまな問題を起こしたために、医者から治療の一環として絵を描くことを勧められると、次第にモンマルトルの風景を題材として次々と描きだす。
 その画面に現れたのが重厚なマチエールをもつ独特の白色で、それは子どもの頃より唯一心を通わせた存在ともいえる漆喰の質感の再現でもあった。画家の手になじんだ触感の白壁には、自身の孤独が塗り重ねられていて、その白で彩られた画面には郷愁と詩情がこめられている。
 今回出品作が描かれた時期から、ユトリロの作品は人々に注目されて評価を高めはじめていたが、画家自身はさらにひどくなるアルコール依存症のせいで精神病院への入退院を繰り返していた。自由をなくしてゆく画家の心には、モンマルトルへの思慕と自身への悲哀が一層深まっていたことだろう。

「……ああ、鄙びた一画があり、自由気ままな生活の習慣が残っているあのモンマルトル!他とは異なる、自主独立の雰囲気があるパリのあの地区には、何と記すべき話が多いことだろう!……もし思いが叶うなら、……石灰塗りの家々の並んだ道の絵か、何かを描きたい」
 本作に流れる虚ろな空気やアンバランスさは、画家の当時の心情を如実に表しているようにも見え、ニュアンスにあふれる白色は心痛の代弁であるとともに、故郷に対する無垢な思いをも感じさせる。

 ユトリロはモンマルトルのほかに、教会にも強い思い入れがあった。とはいえ、母ヴァラドンの方針によって幼児洗礼を受けておらず、ユトリロ自身が望んで洗礼を受けたのは1933 年になってからである。しかし絵をはじめた直後から教会を題材にし、洗礼前からサクレ=クール寺院や各地の教会を数多く描き、晩年には制作よりも祈りを捧げることに時間を費やした。
 画家が教会に特別な思いをもった理由ははっきりとしていないが、モンマルトルの子どもたちからいじめられた時には教会に逃げ込んだりしたようで、自分を助けてくれる存在という意識があったと考えられる。幼少期から満たされない思いを抱えていた画家は教会を描くことで自らの心を慰めたのであり、それは漆喰の白壁を描くことに匹敵するほどであったのだろう。
「私は教会が好きだ。どんなに粗末な教会であっても」と語った画家は、さまざまな教会を真正面から描き、時には画面いっぱいになるほどに大きく表した。しかし、サクレ=クール寺院に関しては遠景のものが多く、モンマルトル風景に現れる大聖堂は、街の建物や木立といった障害物越しの小さな姿で、本作でも壮麗な正面でなく裏手から描く。その視点は、なじみ深すぎるがためにもはや街並みの一部と化しているのか、それとも洗礼を受けていない画家の屈折した思いの発露であるのかと、さまざまに考えを巡らされる。その複雑な心情が織りなす情感こそがユトリロの魅力であり、独特の白とモンマルトルの象徴を表す本作は、画家の心象風景ともいえる逸品である。